かつて広島が遠浅の入り江だったころ行き交う船を導き信仰された岩礁
平和大通りと鯉城通りが交差する、そのすぐそばに白神社(しらかみしゃ)はあります。あわただしく人や車が行き交うこの場所ですが、かつてここは海であったと言います。
南北朝の対立が続いていた1371年、九州探題(たんだい)に任命されて西へ下った今川了俊(いまがわりょうしゅん)は、道中のつれづれを綴った『道ゆきぶり』の中で、広島付近の様子について「しほひの浜を行くほどになにとなく面白し」と書いています。「しほひの浜」とは干潟のことです。つまり当時の広島一帯は、潮が引けば人が歩いて渡れる遠浅の入り江であったことがわかります。
白神社の岩礁も、その頃は海の中から頭をのぞかせていたのでしょう。それが、今から約400年前の天正年間、広島城が築かれ城下町が整備された頃には、太田川デルタの発達や埋め立てによって、海岸線付近に位置するようになったと言います。
白神社のいわれについては、『知新集(ちしんしゅう)』によると海に突き出た岩礁の上に白紙を立てて、行き交う船の目印としていたところへ、後に小社を建てて白神明神と名付けたと伝えられています。
それがいつのことかははっきりしませんが、航行のための重要な目印とされた岩が、岩礁を神体とする民俗的信仰と結び付き、土地の人々に敬われるようになったのでしょう。
広島城を築いた毛利輝元は、城の南正面にあって人々の信仰を集めていたこの小社を城主の氏神、そして広島城下の総産土神(そううぶすながみ)(土地の守り神)とし、岩礁の上に新しい社殿を建立しました。
その後、福島正則や浅野家代々の広島城主もこの神社を大切にしてきたそうです。
指定年月日:昭和59年(1984年)11月28日
INFORMATION
- 住所
- 〒730-0037広島県広島市中区中町7-24