広島市、府中町、海田町のディープな歴史を巡る日帰りコースを紹介します!
多家神社
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古事記・日本書紀ゆかりの地
神武天皇(じんむてんのう、初代天皇)が日本を平定する旅の途中、立ち寄られた所と伝わります。『古事記』では阿岐国(安芸国、あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に七年滞在されたと記述され、『日本書紀』では埃宮と記述されています。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となりました。また、多家神社は平安時代の法典である「延喜式」に安芸国の名神大社(みょうじんたいしゃ、全国屈指の大社)3社の一つとして伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともにその名が記されています。
車 約15分
岩瀧神社
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絶景広がる岩瀧山の中腹に鎮座する古社
天長3年(826年)には既に創建されていたとされる、歴史の古い神社です。
岩瀧山の稜線からは瀬戸の海が眼下に広がりその景観は絶景で、登山客も多く、この中腹に鎮座するのが岩瀧神社です。
春には桜が咲き乱れ花見客で賑わうお花見スポットでもあります。
その眼下に菅原道真公が寄港された貴船の地があり、天満宮が祀られたという伝えがあります。
車 約5分
旧千葉家住宅
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現代に漂う江戸時代の面影
旧千葉家住宅は、近世山陽道(西国街道)の宿場町として栄えた海田にあって、宿駅の要職を勤めた千葉家の旧宅です。
御茶屋(本陣)や脇本陣に準ずる施設として、要人の休泊などにも使われた本住宅は、街道沿いに面して建ち、主屋・角屋・座敷棟及び泉庭により構成されています。
中でも、安永三年(1774年)に建築された座敷棟は、同時期に建てられた付属建物や泉庭とともに、建築当初の統一感ある接客空間の面影を今によく伝えており、1991年に書院が広島県重要文化財、泉庭が広島県名勝に指定されました。
また、2011年には、郷土の歴史文化の継承や学習に役立ててほしいと、千葉家から海田町へ本住宅が寄贈されました。
徒歩 約1分
織田幹雄スクエア
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海田町の学びと歴史文化の拠点
織田幹雄スクエアは、海田町の社会教育の拠点である「海田公民館」と海田町出身で日本人として初めてオリンピックで金メダルを獲得した織田幹雄さんを顕彰する施設「織田幹雄記念館」の複合施設です。
隣接する広島県指定重要文化財・名勝の旧千葉家住宅と一体性を持たせることで、海田町の学びと歴史文化の拠点施設となります。
車 約20分
中野砂走の出迎えの松
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〒739-0321 広島県広島市安芸区中野1丁目6
当時の旅人の疲れた身体を癒す憩いの場
瀬野川中流の右岸に、「出迎えの松」と地元で呼び親しまれてきた6株のクロマツが並んでいます。
ここはかつて大坂と長崎を結ぶ西国街道(さいごくかいどう)の道筋にあたっていました。西国街道は五街道に次ぐ重要な幹線道路で、沿道の諸大名は五街道にならって、要所に宿駅や茶店を置き、一里(約4km)ごとに一里塚を築き、また松並木を作るなど、その整備に努めました。この「出迎えの松」は、その街道松の名残です。
古代の山陽道は、この松のある中野から北西へ向かい、甲越峠(こうごえとうげ)を越えて安芸郡府中町へ抜け、安古市(やすふるいち)あたりを通って西へ向かっていたと言われています。しかし、広島城が築かれ、城下町が整備された時に海田を通って広島城下へ入る道筋に改められました。
現在広島市内で街道松の残っているところは少なく、またこれほどまとまって残っている例は他に見られません。
「出迎えの松」の名は、参勤交代の制度に従い、一年間の江戸勤めを終えて国に帰る藩主が、最後の宿泊地西条四日市を発って広島城下に入る際、留守を預かった家来たちがこの付近まで出迎えたという言い伝えに由来しています。
〒739-0321 広島県広島市安芸区中野1丁目6