呉を訪ねるなら、ぜひ知っておきたいのが、この街と戦艦「大和」との深い結びつきです。世界最大、そして最強と謳われる戦艦「大和」がなぜ呉で建造されたのか。そして驚くべき巨艦に秘められたテクノロジーから、その後たどった運命までを分かりやすく解説します。戦艦「大和」と呉の歴史には、軍艦の街という言葉にとどまらない近代日本のものづくり精神が刻まれているのです。

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軍事史研究家 宮永忠将

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軍事史研究家 宮永忠将

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軍事史研究家 宮永忠将

1973年生まれ。株式会社国際通信社にて「コマンドマガジン」「RPGamer」、ゲーム会社ウォーゲーミングジャパン勤務等を経て、歴史・軍事関連の執筆。YouTube/宮永忠将のミリタリー放談を主催。著書:『フランス戦艦入門』(光人社NF文庫)・他

目次

世界最大の戦艦「大和」と呉


高知県の宿毛湾沖で公試運転中の戦艦「大和」。27.46ノットを記録した。

世界最大、そして最強の戦艦「大和」は、呉の海軍工廠で建造されました。呉の造船所が本格化したのは日清戦争後の1897(明治30)年です。それから半世紀もしない1941(昭和16)年12月に、当時の世界でも類のない巨大戦艦を完成させたことは、海軍の歴史に留まらず、世界の産業技術史という観点からも偉業というほかない、大変な出来事なのです。

日本のような島国の防衛には、強力な海軍の存在は不可欠です。同時に世界で市場や植民地の獲得にしのぎを削る列強諸国でも、対外進出には海軍増強が必要でした。そして当時はアジアの新興国に過ぎなかった日本が、1904(明治37)年からの日露戦争に勝利したとき、戦艦が決定的役割を果たしたことから、戦艦の時代が本格的に始まりました。列強は最新の戦艦を1隻でも多く保有しようと邁進したのです。

昔も今も変わらず、軍艦には様々な種類があり、多様な役割が与えられています。その中で、戦艦とは、その名の通り「戦う軍艦」です。艦隊の打撃力の中核となり、敵艦隊の戦艦を撃破する――軍事的に説明するとこのようになります。要は、敵艦よりも強力な主砲を数多く搭載し、自分の主砲で撃たれても簡単には沈まない。そんな戦艦を、各国の海軍が競って建造したのです。これを「大艦巨砲主義」とも呼びます。

こうなると戦艦には単なる兵器や戦力としては表せない価値が生まれました。大艦巨砲の時代、トップクラスの戦艦の建造は、その国の海軍力を示すだけでなく、工業力や経済力などの国力をなによりも象徴する事業となったのです。日本は日露戦争と前後して、戦艦の国産建造に踏み出しました。呉海軍工廠では、その日本最初の主力艦一等巡洋艦「筑波」が建造されました。以後、戦艦「大和」に至るまで、呉は日本海軍の戦艦建造におけるフロントランナーであり続けたのです。

戦艦「大和」に込められた脅威の技術力


1941年9月20日、呉海軍工廠で最終艤装中の戦艦「大和」

舳先から海中のスクリューまで、まさに「大和」は技術の塊ですが、特に次のようなポイントが注目されます。

【世界最大の「大和」の主砲】


建造中の戦艦「大和」

「大和」が搭載した主砲は46センチ砲と説明されます。この数値は砲弾の直径を指すもので、それまで最大の戦艦の主砲は、日本の長門型戦艦も採用していた41センチ砲でした。ですので、「大和」は一挙に5センチも直径を増やしたことになります。

戦艦同士の砲撃戦では、敵艦の分厚い装甲を破るために徹甲弾を使用しますが、「大和」と「長門」を比較した場合、初速では「大和」の砲弾の威力が1.4倍もあり、距離が増すほど砲弾の運動エネルギーの差が開いていきます。しかも「長門」の主砲の数は8門ですが、「大和」は9門も搭載しているのです。そして太平洋戦争を通じて、世界でも46センチ主砲を搭載した戦艦は「大和」と「武蔵」の2隻だけだったのです。

この「大和」の主砲を製造していたのは呉海軍工廠の造兵部です。46センチ砲の砲身は、全長約21メートル、重量は約165トンに達します。これを製造するために、呉には世界最大級の設備が導入されていました。このうち砲身を削り出すのに使用された旋盤は、戦後も民間に払い下げられて使用されていましたが、2022(令和4)年、約80年ぶりに故郷の呉に戻り、大和ミュージアムの西側敷地内に設置されて、戦艦「大和」の記憶を現在に伝えています。

【「大和」はコンパクトだから凄い】


手前が戦艦「大和」で、後ろが大和型戦艦2番艦の「武蔵」

巨大で強力な主砲を積んだだけでは戦艦とは呼べません。戦艦の条件としては、自身が搭載している主砲の砲弾が命中しても簡単には沈まない構造を備えていることが重要なのです。しかし「大和」の主砲弾には、距離20キロメートルで直角に命中した場合、約56センチの鋼鉄製装甲板を貫通する威力がありました。このような砲弾の命中に耐えられる分厚い装甲を、艦のあらゆる部位に施すことは不可能です。

そこで、戦艦の防御には集中と選択が必要になります。ボイラー室や弾薬庫など、破壊されたら致命傷を負いかねない部分は物理的な装甲の厚さで守り、それ以外の部分は、破壊されても艦の浮力を失わずに済む設計にするのです。この防御設計は、各国海軍の腕の見せ所でした。例えばこの時、冶金技術が進んだ国なら、同じ重量で、他国よりも高品質で強靭性にも優れた装甲材質を使用できるので、戦艦の防御力は優れたものとなるのです。

このようにして、日本が持てる技術を結集した結果、戦艦「大和」は基準排水量は64,000トンという巨艦となりました。これはアメリカ海軍の最新戦艦であるアイオワ級戦艦より20,000トン近くも大きな数値です。大和ミュージアムに隣接する「大和波止場」は、実際の「大和」の大きさを体感できるような工夫がされている人気スポットです。ところが軍艦設計者の間では、「大和」のような46センチ砲を搭載した戦艦を、64,000トン程度の規模で完成させたことが高く評価されているのです。

これを象徴するのが、「大和」の主砲塔です。長門型までの日本の戦艦は、主砲塔ごとに2門の主砲を収納する連装砲塔を採用していました。しかし大和型で初めて、砲塔1基に主砲3門を収める3連装砲塔を採用しています。これにより、長門型から主砲塔を1基減らしたのに、砲門数は増加し、しかも艦の全長を短く抑えることができたのです。

「大和」は世界最大でありながら、その能力を意外なほどコンパクトな船体にまとめたという、現代日本にも繋がるものづくり精神の象徴でもあるのです。大和ミュージアムには、そうした戦艦の建造を可能にした先進的、独創的工夫の数々と、その技術者を支えた「造船の街」、呉の歴史が詰まっています。

実力を見せられなかった「大和」の戦歴


1944年10月22日、レイテ湾へ出撃する日本海軍艦隊。右から戦艦「長門」、「武蔵」、「大和」

日本海軍が大和型戦艦を建造したのは、以上の技術的優位を1日も早く確立するためでした。戦艦は計画立案から完成まで、短くても5年は必要です。実際、「大和」も設計案の作成は1935(昭和10)年春で、完成まで6年以上かかっています。そこでアメリカが保有していない46センチ砲搭載の戦艦を先に建造して数年のアドバンテージを確保しようと考えたのです。

したがって「大和」建造の真相は諸外国にはトップシークレットでした。呉の軍港は山に囲まれて見下ろせるようになっていますが、「大和」の造船ドックに、この時に初めて目隠しを兼ねた大屋根がかけられました。他にも呉線の沿線に高塀を設けて、列車や沿線住民から船体を見えないようにしたとの証言なども残っています。また本来なら大々的に行われるはずの進水式が非公開となり、しかも外部から見えないように、「大和」の移動時には煙幕が使用されたりしました。

「大和」建造はまさに国運を賭けたプロジェクトでした。ところが太平洋戦争が始まると、海軍作戦の主力は航空機とこれを運用する航空母艦に変化していました。艦列を結んだ戦艦同士が堂々と砲撃戦を繰り広げる展開になる前に、航空攻撃で海戦の行方が決まってしまったのです。結果、「大和」と「武蔵」は、連合艦隊の旗艦を務めつつも、ほとんど最前線に出ないまま、戦局は悪化し続けたのです。

1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦は、日本海軍の最後の大規模出撃となり、遂に「大和」と「武蔵」も主力艦隊として投入されました。しかし海戦は日本の敗北に変わり、「武蔵」はフィリピンのシブヤン海で沈没してしまいました。そして1945(昭和20)年4月、沖縄救援の名目で出撃した「大和」は、鹿児島県坊ノ岬沖で、敵空母艦載機の集中攻撃を受けて撃沈されたのです。

おわりに


大和ミュージアムの目玉である10分の1戦艦「大和」(資料提供:大和ミュージアム)

このように「大和」の歴史は、日本近代産業史の一つの到達点であると同時に、その巨体には日本最大の軍港都市であった呉の歴史そのものが刻まれています。そして、いまは深い海底に静かに眠っている巨大戦艦の歴史を、大和ミュージアムは現代に伝え続けているのです。

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