呉が軍港都市、軍艦の街と呼ばれるのは、そこに軍艦を建造するための海軍工廠があったからです。そして呉の海軍工廠では戦艦「大和」をはじめ、日本海軍を象徴するような主力艦やユニークな軍艦が数多く建造されました。ここでは、そんな呉海軍工廠が生み出した有名な軍艦の一部について解説します。海軍工廠と軍艦の記憶は、今も呉の街の景観の一部となっているのです。

著者プロフィール

軍事史研究家 宮永忠将

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軍事史研究家 宮永忠将

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軍事史研究家 宮永忠将

1973年生まれ。株式会社国際通信社にて「コマンドマガジン」「RPGamer」、ゲーム会社ウォーゲーミングジャパン勤務等を経て、歴史・軍事関連の執筆。YouTube/宮永忠将のミリタリー放談を主催。著書:『フランス戦艦入門』(光人社NF文庫)・他

目次

戦艦の建造をリードした呉海軍工廠

呉の街の発展と旧海軍は密接な関係にありますが、その発展に大きな役割を果たしたのが海軍工廠です。日本海軍は呉、横須賀、佐世保、舞鶴の4ヵ所に軍港機能を司る鎮守府と海軍工廠を設置しました。それぞれ地理的特性や設置された時代背景、役割の違いがありますが、元々の地域的な文化と融合して、海軍工廠ごとの個性が生まれました。

その中でも、日本海軍の軍艦建造を牽引したのは呉と横須賀でした。横須賀は幕末の海軍建設に遡る伝統があり、日本近代海軍造船技術の出発点です。最初にフランス式技術を導入してインフラを整備し、技術教育を通じて、国内初の本格的軍艦建造を担った工廠です。このような背景から、横須賀は技術の蓄積と人材育成の中枢でした。

一方、呉は明治政府の国策に沿って興された軍港都市であり、日本海軍が模範としたイギリスの影響が強く現れています。その上で、計画的に設備を拡充して重工業を集積したことで、戦艦や航空母艦などの大型主力艦艇の設計や建造を得意とする海軍工廠に成長したのです。世界最大の戦艦大和の建造が呉に託されたのも、このような背景があったからです。

そんな呉海軍工廠で建造された代表的な軍艦を紹介します。

【戦艦「長門」】


アメリカの戦艦コロラド&メリーランド&ウェストバージニア、イギリスのネルソン&ロドニーと並んで世界のビッグ7と呼ばれた戦艦「長門」


41㎝砲8門を搭載した戦艦「長門」

「長門」は呉海軍工廠を象徴する戦艦で、姉妹艦に「陸奥」がいます。戦艦「大和」はその存在が秘密にされていたので、ほとんどの日本人にとっては「長門」と「陸奥」の2隻が日本海軍の顔となる戦艦でした。1920年に就役した時、41センチ主砲を備えている戦艦は、イギリスもまだ保有しておらず、まさに日本が列強海軍に肩を並べたことを示す最新鋭戦艦でした。

太平洋戦争の開戦時には、「長門」は連合艦隊旗艦を務めましたが、航空機が優勢な時代になっていたため戦艦同士の決戦の機会がありませんでした。それでも戦争後半には戦力としての期待が寄せられて、1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦に参加。敵艦隊との交戦も経験しました。そして戦争を無事な姿で生き延びた「長門」は、アメリカに接収された後の1946(昭和21)年7月、ビキニ環礁での原爆実験標的艦となって、その生涯を終えたのです。

【航空母艦「赤城」】


三段空母時の空母「赤城」(上)及び戦艦「長門」(下)


真珠湾攻撃部隊の旗艦として活躍した空母「赤城」

航空母艦の「赤城」は、最初、巡洋戦艦として起工されました。巡洋戦艦とは、巡洋艦なみの高速と戦艦と同等の攻撃力を備えた、第一次世界大戦当時の主力艦艇です。ところがワシントン海軍軍縮条約の成立によって巡洋戦艦の新規建造ができなくなり、建造中の「赤城」は航空母艦に改造されることになりました。高速が決め手の巡洋戦艦は、空母への改造に適していたのです。排水量は約30,000トンと、当時の空母としてはかなり大型であった「赤城」の運用経験を通じて、日本海軍は洋上航空の分野で世界をリードする立場となったのです。

太平洋戦争では真珠湾攻撃部隊の旗艦として、大戦果を上げます。続いてラバウル攻略、インド洋作戦など開戦初期の一連の作戦で主力として活躍しました。しかし1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦では、攻撃隊の兵装転換中のところを敵急降下爆撃機に襲われて爆弾が命中、艦内に火災が拡大してしまい、総員退艦後に友軍の魚雷によって自沈処分とされたのでした。

【航空母艦「蒼龍」】


日本海軍の代表的な正規空母である空母「蒼龍」


高知県の西部にある宿毛湾に停泊中の空母「蒼龍」


空母「蒼龍」の煙突

航空母艦「蒼龍」は、海軍軍縮条約の制限下で建造された、日本海軍の代表的な正規空母です。約20,000トンと比較的コンパクトな設計ながら、高速性能と搭載機数、攻撃発進能力を備えていました。就役した1937(昭和12)年当時の世界を見渡しても、機動部隊での運用に最適化された空母として、きわめて実戦的と評価できます。

太平洋戦争では真珠湾攻撃に参加し、その後も「赤城」、「加賀」、「飛龍」とともに第1航空艦隊の中核を担い、ポート・ダーウィン空襲、インド洋作戦など各地に転戦しました。しかしミッドウェー海戦では隙を突かれて敵急降下爆撃隊の攻撃を許し、格納庫内に大火災が発生します。間もなく航空燃料や弾薬などが誘爆して継戦不能と判断され、総員退艦が発令された後に沈没しました。

【巡洋艦「大淀」】


大型カタパルトや航空機用格納庫を備えた軽巡洋艦「大淀」

「大淀」は、二等巡洋艦(軽巡洋艦)に分類されますが、大型カタパルトや航空機用格納庫など、航空機関系の装備が充実した特異な姿となっています。これは潜水艦隊の指揮という、珍しい役割が期待されたからです。ところが建造中に太平洋戦争が発生すると、「大淀」に期待されたような潜水艦作戦が実施できる戦況とはなっていませんでした。そこで航空艤装を大幅に減らして通信設備を強化し、連合艦隊旗艦としての役割が、「大淀」に新たに与えられたのです。「大淀」の就役によって、大和型戦艦は連合艦隊の旗艦任務から解放されたのでした。

「大淀」は1944(昭和19)年のマリアナ沖海戦やレイテ沖海戦に参加し、主力艦が次々と失われていく中で、連合艦隊の司令部機能を支えました。しかし翌年7月の呉軍港空襲で、江田島湾の奥の浅瀬に追い込まれ、右舷に大きく横転した状態で大破着底し、戦後にスクラップ処分されたのでした。

【潜水艦「伊400」】

格納筒に特殊攻撃機晴嵐を3機搭載した「伊400」

呉海軍工廠は、潜水艦についても高い建造能力を示しました。その証明が「伊400」です。最大の特徴は、艦に設置した格納筒に特殊攻撃機晴嵐を3機搭載していて、航空攻撃を実施可能な世界初の潜水空母であったことです。一説にはパナマ運河の攻撃も予定されていたとされるように、単独で敵の勢力圏に進出しなければならない「伊400」は、当時の潜水艦としては破格の大きさと航続距離を誇りました。

しかし1944(昭和19)年末に完成した時点では、「伊400」の活躍で戦局を変えられるような目標は存在せず、敵機動部隊が集結するウルシー環礁攻撃のため出撃中に終戦を迎えました。後に米軍に接収され、潜水空母という特異な技術を徹底的に調査された後、ハワイ沖で海没処分されました。

市内各所に残る海軍工廠の記憶


蔵本通り沿いの中央公園に設置された戦艦「大和」の主錨

戦後、残存していたわずかな日本海軍艦艇ですが、ほとんどは賠償艦となったり、スクラップ処分されてしまい、当時の軍艦は1隻も残っていません。しかし軍艦の街、呉には海軍工廠の業績を示す数多くの史跡や記念碑が残っています。

見どころを1つあげるなら、「歴史の見える丘」がおすすめです。かつての「大和」が建造されたドックなどを見渡せる場所に設けられた公園で、明治以降今日までの、軍港都市から平和産業都市としての呉の歴史を一望できる場所として、1982(昭和57)年に完成しました。ここには「大和」の艦橋をかたどった「噫(ああ)戦艦大和塔」や、旧呉海軍工廠の造船ドック埋め立てに伴い、ドックの壁石を使ってドックの底に下りる階段を再現した造船船渠(せんきょ)記念碑など、様々な関連記念碑が設置されています。また市の中央公園の芸術の広場には、「大和」に使われたものと実物大の錨のモニュメントが存在感を見せています。

おわりに


歴史の見える丘の戦艦大和塔

呉海軍工廠は、呉とその周辺地域の一大発展を支えただけでなく、戦後の平和産業都市の重要な基盤となり、今日まで続いています。戦艦「大和」だけでなく、呉とその周辺には様々な軍艦に関連する史跡や記念碑が残り、往事の記憶を現代に伝えているのです。

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