呉は軍港都市という歴史と伝統に裏付けられた、日本でも有数の海上自衛隊の基地機能を有する街です。でも、これは呉という街の一部に過ぎません。江戸時代には漁村しかなかった呉湾が、なぜ軍港として選ばれたのか。そしてどのような国策に乗って呉が軍港都市として発展し、太平洋戦争の災禍を経てどのように再生したのか。その歴史を軍港と鎮守府を軸にして紐解いてみましょう。

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軍事史研究家 宮永忠将

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軍事史研究家 宮永忠将

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軍事史研究家 宮永忠将

1973年生まれ。株式会社国際通信社にて「コマンドマガジン」「RPGamer」、ゲーム会社ウォーゲーミングジャパン勤務等を経て、歴史・軍事関連の執筆。YouTube/宮永忠将のミリタリー放談を主催。著書:『フランス戦艦入門』(光人社NF文庫)・他

目次

呉鎮守府の開庁


呉地方総監部第1庁舎(正面写真)(写真提供:海上自衛隊 呉地方総監部)

1886(明治19)年4月に制定された海軍条例により、呉に鎮守府を設置する動きが始まりました。鎮守府とは古代日本に遡る軍事用語ですが、近代においては、日本海軍が各地に設置した海軍の本拠地のことです。海軍の司令部としての機能と、軍艦を建造、修理する役割の海軍工廠が合わさり、軍港の街、呉が完成したのです。軍港とは、軍艦が停泊できる施設だけではなく、担当する海域の防備や艦艇部隊を統率する司令部機能、軍艦の建造、修理などの工場機能、そして兵員の訓練施設や学校、病院、電気、水道など関連施設の運営まで含む、まさに海軍の総合拠点でした。

この軍港の頭脳の役割をするのが鎮守府です。例えば海軍軍人の一生は、鎮守府との関わりから始まります。鎮守府の下には海兵団が置かれ、徴兵、志願を問わず、海軍軍人は皆、この海兵団で訓練を受けました。そして全員が本籍地を管轄する鎮守府の兵籍に編入され、その鎮守府の名を冠した兵籍番号を持ちました。つまり海軍軍人にとって鎮守府は、単なる勤務先ではなく、身分を証明する場所であったのです。本人の生まれ故郷はどこであっても、軍隊生活の出発点と兵籍は鎮守府に結びつきます。だから呉の街では、海兵団に入る若者や、海軍軍人となった息子や夫への面会に訪れた家族、徴募に関係する広報活動など、海軍の活動が常に日常風景の中に存在していました。

鎮守府には軍艦の母港という役割もあります。軍艦は常に海に出ているわけではなく、整備や乗員の訓練、修理などのための拠点が必要でした。鎮守府がその拠点であり、軍港はその実働基盤なのでした。海軍軍人にとっても、軍艦にとっても、鎮守府と軍港は故郷のような場所であったのです。

なぜ呉が軍港に選ばれたのか

日本海軍は最初、横浜に東海鎮守府を仮設置していましたが、1884(明治17)年に移転、改称する形で横須賀鎮守府となりました。一方、西日本については、早い段階で瀬戸内海への設置が決まっていました。瀬戸内海は、東は紀伊水道から淡路島で塞がれ、西は豊後水道や関門海峡によって守られています。その上で地理的に見た場合にも中心地となる広島が候補地となりました。そして最初は三原港(現・三原市)や沼隈郡草深村(現・福山市沼隈町)が検討されましたが、最終的には呉が選ばれました。標高737メートルの灰ヶ峰をはじめとする山々に三方を囲まれ、海に面して開けた南西方面には江田島、能美島、倉橋島があるため、周囲を陸地に囲まれている天然の良港であったからです。陸軍の拠点である鎮台が置かれている広島と隣接していることも、選定の決め手となりました。こうして1889(明治22)年7月1日、呉に鎮守府が開庁しました。ちなみに同じ日に長崎の佐世保にも鎮守府が設置されています。

呉鎮守府と軍港整備のために政府が取得した敷地面積は約148ヘクタールもあり、建設は3期に分けて行われました。鎮守府庁舎にはじまり、兵舎、倉庫、火薬庫、病院、そして軍艦の建造、整備施設などが急ピッチで建設されたのです。主要な建物がすべてレンガ造りの洋風建築であったことが、軍港の景観を特徴付けました。ちなみに鎮守府庁舎は1905年(明治38年)の芸予地震で損傷したため、日露戦争後の1907(明治40)年に建て直されます。この2代目鎮守府庁舎は、現在、海上自衛隊呉地方隊の同総監部第1庁舎として利用されています。また入船山記念館にある旧呉鎮守府司令長官官舎は、呉鎮守府司令長官の公邸として使われた建物です。洋館と和館を組み合わせた構成が特色で、太平洋戦争後は進駐軍に接収されて司令部建物として使われた時期もありますが、軍港都市・呉の歴史と、明治の上質な邸宅建築を同時に体感できる、呉観光の人気スポットになっています。

進む軍港都市としての整備


かつて戦艦「大和」を建造したドッグを継承し、呉海軍工廠の後身として大型の民間船舶を建造しているジャパン マリンユナイテッド(JMU)呉事業所

鎮守府の設置と同時に、造船部の建設が始まりました。船体の建造を担う軍港としての中心機能です。1891(明治24)年4月に、第一船渠(ドック)が完成し、同年9月に製図工場、翌年3月には第一船台と造船工場が完成しました。以後、船具工場、造船工場仕上場、船渠工場などが次々に稼働し、一通りの造船設備が整った1897(明治30)年10月8日に、呉鎮守府造船部は、呉海軍造船廠となりました。

造船部と並んで重要なのが兵器部です。兵器部は軍艦に搭載する砲や機銃、弾薬、魚雷などを製造する部署です。東京にあった既存の兵器部が手狭になったため、呉鎮守府内に移設されることになったのです。この呉の兵器部の目玉は、1893(明治26)年に設置された100トン級のクレーンでした。当時、日本海軍は日清戦争を控えて艦隊の増強を急いでいました。そして戦争となれば、軍艦の修理や整備の拠点が不可欠です。呉鎮守府の建設を急いだ理由の一つです。日清戦争に勝利した後の1897(明治30)年5月に、兵器部は呉海軍造兵廠に改組されました。

そして日露戦争直前の1903(明治36)年11月、呉海軍造船廠と同造兵廠が統合されました。この2部署の他に、製鋼部、造機部、会計部などを備えた呉海軍工廠が、この時に正式に発足したのです。

平和産業港湾都市への転換


造船、鉄鋼、機械金属、パルプ産業から近年では自動車や半導体関連産業なども発達した呉市の産業

天然の良港として地形に守られた呉ですが、太平洋戦争の末期には激しい空襲を受けて、軍港と停泊していた艦艇、そして市域は大きな被害を受けました。さらに日本の敗戦が、呉に深刻な問題を突きつけました。日本海軍の廃止と軍港機能の停止です。呉の発展は軍港とともにありました。江戸時代から呉の周辺では広島と結びついた漁業が盛んでしたが、鎮守府開庁から約30年間で、海軍中心の経済に移行し、人口は約13万人に増大しました。都市の規模としては全国第10位に急成長しましたが、これは当時の仙台や金沢を上回っています。その都市の産業基盤が丸ごと失われてしまったのです。

この苦境を脱する転換点となったのが、1950(昭和25)年に制定された旧軍港市転換法です。呉と同じ理由で行き詰まっていた横須賀、佐世保、舞鶴を含む4都市について、「平和産業港湾都市」に転換することを条件に、旧海軍施設を国有財産として無償または低価格で払い下げるという法律です。これを受け入れた呉市は、旧海軍工廠跡を中心に様々な民間企業の誘致に成功して、造船、鉄鋼、機械金属、パルプ産業が集まる臨海工業地帯へと生まれ変わったのです。海軍工廠を支えた数多くの熟練労働者という呉の強みに、多くの企業が将来性を見出したのです。また呉港も重要港湾の指定を受けると、市が港湾管理者となって、港の自主運営が始まりました。こうした業務には、軍港の運航業務に携わっていた旧海軍の人材が不可欠でした。

もっとも、呉の再生は「平和産業都市」だけでは終わりません。大規模な軍港都市としてのインフラは戦後の海上安全保障の資産となりました。まず瀬戸内海の掃海や海上保安機能の拠点となり、海上保安大学校が東京から呉へ移転します。そして1954(昭和29)年7月には、海上自衛隊呉地方隊・呉地方総監部が発足したのです。

戦後に「平和産業港湾都市」を掲げた呉は、旧軍施設の一部を産業基盤に転用して、復興への道筋を立てました。しかし一方で、旧海軍の港湾・補給・修理能力の一部は海上保安庁と海上自衛隊へ引き継がれて、日本の防衛の要となっているのです。心から平和を希求しながら、その平和を守るためには現実的な防衛力を維持しなければならない。そんな日本が置かれている難しい状況が、目に見える形で共存しているのが、呉という街の個性でもあるのです。

おわりに

国策で作られた新しい街。その中で育まれた軍港都市としての伝統と個性。そして戦後の平和への取り組みと日本を守る最前線としての機能。そんな呉の歴史が、独特の景観をつくっているのです。

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